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赤坂整形外科

院長のオリジナルの考えをのせています。今までの考えを残してゆくつもりで筆を執りました。読み物だと思ってください。
コーヒーブレイク
113私が整形内科医になったわけ6 ファイナル

今回は、開業した後の話です。

 当時の私には、開業にこれほど資金がかからなかった例はない と自慢するほど、お金がありませんでした。西窪病院の退職金を合わせて、ようやく運転資金が用意できたほどです。それ以外の、器械の購入、事務用品の購入費も含めてすべて、リース扱いにしました。手付金、担保などなくても、月々の支払いが可能であれば、借りられる(リースできる)のです。宣伝費もほとんどなく、開院前は、ビラを作成して、新聞と一緒に配ったのみでした。
 したがって、初めは、1日10人前後の来院患者数から始まりました。現在の人数は、当時としては、雲の上の数字です。こんなにも来てくださるのかと、われながら感心しております。

手術を捨てる!!

 開業当初は、多くの開業された整形外科の先生が最初そうであるように、手術には固執しておりました。患者さんも少なかったので、週一回、西窪病院勤務当時よりパート勤務していた病院にそのまま勤務し続け、そこで手術したり,医院の中でも簡単な手術を行っていました。が、患者さんが多くなると、忙しくなり、時間も取れなくなり、疲れも溜まってきましたので、パート病院勤務は止めました。医院内の手術も、創を縫合する必要のある方や、感染して腫れている方(=すでに不潔になっています。)などの手術以外は、行わないこととしました。ちょっとした皮下腫瘍の切除でも、清潔なきちんとした手術室がないと、感染する可能性が高いのです。したがって、現在は、すべて手術室のある病院に紹介しております。(きれいな何もない肌にメスを入れる手術は行っていないと言う意味です。)

治療の引き出しを多くする!!

 開業した当時の、モットーは、整形外科の考えに固執していては、多くの方がよくならない でしたから、出来るだけ他の考えを取り入れようと努力しました。引き出しは出来るだけ多く持っていた方が、多くの方が治るはずです。まず、かねてから希望だった漢方医学を勉強しました。講座に参加したこともあります。勉強してみた結論は、漢方医学は奥が深く、薬を選ぶのが非常に難しいと言うことです。西洋薬のように、この症状に、この薬と単純に決められないからです。数年間勉強しましたが、いまでも、どの薬がよいのか迷うことが多いのです。それから、いろいろな他の医学治療にも目を向けてみました。休日には、よく本屋に言って、医学関係の本をいろいろ読み漁りました。例えば、針灸のつぼの考えは、中国医学で、日本の漢方(=和漢)とは別です。中国では、西洋医学講座のほかに、漢方薬医、鍼灸医それぞれ、6年間勉強する講座があるようで、それだけ奥が深く、極めるのが難しいのです。そのうちの、鍼灸の考えのつぼを理解するため、教科書を読む気にもなれませんので、出来るだけ、一般書で、わかりやすいものを読み漁った と言う具合です。
 そこで見つけた本の1つが、関節運動学的アプローチです。以前からこの考えがあることは知っていましたが、どのようなものかわかりませんでしたので、ここで始めて勉強しました。本で勉強して、自己流で行っていますから、真の関節運動学的アプローチではないと思いますが、これが診察と治療に非常に役立っている現状です。
 プラセンタ治療も、取り入れました。注射薬は保険適応ですが、内服薬もあり、こちらは保険適応外なのですが、使用してみたこともあります。今話題の、グルコサミン、コンドロイチン硫酸の内服も、いまだ処方薬ではありませんが、購入して飲んでもらったこともあります。

新しい医院を立てる!!

 患者さんも増えて軌道に乗ってくると、歯科医院用に建てられた旧医院は、整形外科用としては、待合室、診察処置室、レントゲン室など非常に手狭で、待つ場所がないために、患者さんがあふれて、中に入れない時もしばしばでした。診察の流れも悪く、待ち時間も多く、どうしても、広いところに移る必要があることは感じていました。
 数年して医院が軌道に乗ると、銀行の態度は180度変わりました。開業前は相手にもされなかったことは反対に、担保物件などなくとも、実績で、融資すると言うのです。建設業者や、銀行員にかねてから希望する場所あたりの土地をいろいろ探してもらっていたところ、運よく希望通りの場所の話が持ち上がりました。たまたま不動産会社の社長さんがうちの患者さんで、その親戚の土地を売ってもらえることになったのです。役得です。
 新しい医院の土地購入、建設は比較的スムースに進み、念願の自分の思い通りの医院を立てることが出来ました。MRI検査と、腰椎、股関節で骨密度を測るDXA検査は、スペースと予算的に無理でしたので、代わりに、踵で骨密度を測定する装置と、下肢の動脈の閉塞を検査できる脈波検査装置を購入し、レントゲン透視装置も備えて、診断、治療に役立てました。超音波診断装置(エコー)も診察ベットのすぐ横において、その場で瞬時に行えるようにしました。
 思い通りの医院を立て、治療を行ってきてみて、現在の当院は、あまり長い時間待たせない(それでも混雑時には、1時間以上待つとぼやかれます。)、診療は手短に(=長く話を聞いて欲しい方には向きません。)、治りも速やかに(それでもなかなか治らない方も多い。)、です。じっくり話を聞いて、リハビリに時間をかけて、歩行練習をしたり、運動療法を行ったりする、他の整形外科の医院や、リハビリテーション関連施設とは、一線を画していると考えています。移転前は、リハビリ室を大きくして、運動療法を行えるよう、マットや、腕を引っ張ったり、脚をつるせる装置を置いたり、歩行練習が出来るように、平行棒、練習用階段、筋肉トレーニング用の錘などの設備を整えて、リハビリテーションをある程度本格的に出来るような構想を練っていたのですが、その構想とは、違う方向に医療方針が進んだことになります。そのため、広いリハビリ室の半分ぐらいのスペースが、リハビリや処置を受ける方の待合になっています。

今、感じること

 整形外科の考えだけではだめと思って、いろいろ治療を取り入れ、どのような場合にどの治療が合うのかがわかってきて、今、また、整形外科中心の考えに立ち戻っています。関節運動学的アプローチ手技を頻用する以外は、ブロック治療、漢方治療、つぼ治療、プラセンタ治療、などは治療のメインにはならないと言うことです。あくまで治療の根本は整形外科の考えにあり、それを必要に応じて他の治療を加えることで、治療に幅を持たせる考えです。
 特に、手術をしない、外科の部分を捨てた今、中心となるのが、勤務医時代から固執してきた、どこまで、手術しないで治るか と言う考えです。=整形内科と言う考え方です。それには、どのような例が手術になるか知っていなければなりません。つまり、整形外科をわかっていないと、整形内科医にはなれません。それでも、手術するかしないか 迷うこともしばしば遭遇します。迷ったら、セカンドオピニオンです。大きな病院では、脊椎、膝、肩、手など、専門としている先生が集まっていますので、それぞれの専門の先生に紹介して、意見を聞く、その指示に従うことです。また、私の判断で、手術した方がよいと考える例は、手術できる病院にそのまま紹介しますし、MRI検査も受けたほうがよいと考える方には、近くの病院に頻繁に紹介していますので、紹介する患者が多いことも当院の特徴になっています。
 そして、手術にはならない方や、整形外科の確実な病名も付かないような方には、整形外科以外の考えも含めて治療を考えます。痛みが長く続いている方は、決めた治療方針でよくならない場合もあり、その方にあった治療を、治療の経過を診て、いろいろと探ってゆかなければなりません。通院治療が必要です。それでも、よくならない方もいらっしゃいます。まして、1回、2回の治療だけですぐよくなる方はわずかです。どうしても、通院治療が出来る範囲の地元中心の医療になります。
 また、来院された方、全員をよくするという、究極の目標には、まだ到達できそうもありません。出来るだけ多くの方が楽になればよいと日常診療に当たっておりますが、己の力量の限界もわかってきました。手足、腰などの抹消の治療を繰り返しても、なかなかよくならない方がいらっしゃいます。年単位で治療を継続して、よくなってきた方も何人かいらっしゃいますが、長期に来院されている方には、同じ訴えを繰り返す方も多いのです。頭で痛みを記憶している状態の方もいる(うつ病など)と考えていますが、頭に直接作用する薬は、精神科領域となり、まだ使用していない現状です。
| コーヒーブレイク | 09:53 | - | - | - | - |
コーヒーブレイク
112、私が整形内科医になったわけ5

 西窪病院では、整形外科医の常勤は私一人でしたので、治療方針の責任者も私です。最初は若かったので、パートに来ている上の先生の意見に従って、治療方針を立てていたのですが、年数が経つにしたがって、パートは後輩の先生がほとんどとなり、自分の方針で医療を行うようになっていました。一般の病院では、整形外科だけでも数人は常勤の先生がいるわけですから、あまりに独創的な?突拍子もない?治療を行ったりすると、上の先生からは文句がでる(=上の先生の許可が要る)でしょうし、下の先生からは、何をやっているのだと、場合により、医局の方に(つまり、科の教授の方などに)チクラレル可能性があります。医局から離れて、一人で医療を行っていると、他に止める先生がいませんので、(他科の先生は、もちろん、専門外ですので、口を挟むことはありません。)自分の意見だけで、その治療ができると言うことです。よく言えば、いろいろな治療を取り入れることができ、自由にできると言うことです。
 具体例を挙げますと、整形外科では、ほとんど使われていない、超音波治療器、トリオ治療器を購入して使い始めました。もちろん、新しい器械を購入すると、お金がかかりますから、事務長、院長には、大変お世話になりました。泌尿器科の先生が購入した、レーザーメスを利用した、椎間板を焼く手術や、股関節の知覚神経を焼く手術なども行いました。硬膜外麻酔は、腰だけでなく、首の部分まで行えるようになり、チューブも入れて、痛みを取る治療だけでなく、手術時の麻酔も自分でほとんどかけていました。通常では、全身麻酔(静脈麻酔後、呼吸から麻酔をかける)となる鎖骨、肩、上腕部の手術も、首の、腕に行く神経の出口部分のブロックと、硬膜外麻酔を併用して、自分で行っていました。消化器内科では、胆石の破砕術(西窪病院には、衝撃波で胆石や、腎結石を砕く装置がありました。手術のように切ることはありませんが、施行時には痛みを伴います。)があったのですが、その硬膜外麻酔を外科の先生が行ってうまく出来なかったので、急きょ、私が呼ばれて麻酔をかけたこともありました。胆石ですと、胸椎部の硬膜外麻酔となります。脊椎の中を走る神経は、脊髄部分ですので、慣れていないと難しいのです。それ以後、麻酔専門でない私が、胆石の破砕手術の硬膜外麻酔を、すべて任されるようになりました。
 麻酔科の非常勤の先生が、週一回来るようになったのも、私を通じてです。同級の麻酔科の先生から、パート勤務できないかという話がきて、事務長にお願いしました。整形外科の手術は、ほとんど自分で麻酔をかけていましたので、結局、麻酔科の先生は、ほぼ泌尿器科の手術の麻酔担当になりました。整形外科は全身麻酔をお願いする時だけ、泌尿器科の先生にも許可を取って麻酔科の先生にお願いしていました。

 別の角度から、取り入れた治療の話をします。
 いろいろな治療を取り入れるようになった最大の理由は、教科書に載っている整形外科の治療だけでは、治らない人があまりにも多いと言うことです。整形外科は、外科と名前が付くように、手術治療に重点が置かれていますから、もともと、手術以外の治療で治すことには弱点があるのです。誰でも、手術無しに治ったら、それに越したことはありません。以前、脊椎外科で手術ばかり行っている先生方に、自分が椎間板ヘルニアになったら、手術を受けるかと言う質問をしたところ、ほとんどの先生が 受けない と答えたと言う事実があります。つまり、誰もが、手術なしで治したいと言うことです。そこで、まず、麻酔科の痛みの治療のメインとなっている神経ブロックをフルに活用しました。神経ブロックに当たる硬膜外ブロックは硬膜外麻酔と同じ手技ですので、自分で麻酔をかけることは、その延長線上にあるようなものでした。次に、整形外科の考えの中でも、習ったことにとらわれずに、装具や、固定を工夫したりして、有効な治療を探ってゆきました。
 それでも、治らない方がまだまだ大勢いました。整形外科では治らない と言われるゆえんです。鍼灸、接骨医、整体師、カイロプラクティック、その他の民間療法に治療をゆだねる方が多い理由でもあると考えます。そこで、今度は、漢方治療まで手を伸ばそうとしましたが、ここで限界を感じたのです。漢方治療は、体質改善の治療でもありますので、どうしても、内科と重なる部分が出てきます。漢方薬は、病名にとらわれずに、患者さんの今の体の状態に合わせて、1〜2種類を選びます。いろいろな症状を、ひとつの薬でカバーします。ところが、西洋薬は、ひとつの症状にひとつの薬を出すので、いろいろな症状を訴える患者さんには、すぐに10種類ぐらいの薬の処方になってしまいます。当時の内科の先生は、その薬を何種類も重ねて出すタイプの先生で、漢方治療とはまったく正反対の先生でした。さらに、院内処方の上、薬局が小さく、何十種類もの漢方薬をおいておくスペースはありませんでした。この辺が、病院勤務の限界でした。さらに、自分の思い通りの治療を行おうとすると、あとは、自分が一国一城の主になる=城を持つ=開業しかない  と、思いなおした時でもありました。

 開業には、テナント(賃貸)でも、通常、数千万円の費用がかかります。特に、保証金と、内装費(何もない箱の中に、壁、敷居、照明、冷暖房、給排水などの工事が要ります。)が高いのです。医療機器は高額ですが、リース制度があって、月々の支払いで済みます。が、最初は収入がありませんので、運転資金も要ります。さらに、宣伝費にもお金がかかります。お金が手元にあれば、あるいは、親戚や親が出してくれるのなら、問題なしです。ない場合も、担保になる物件を持っている、あるいは、持っている親族が保証してくれるのなら資金融資が可能です。(担保がなく、事業計画のみでは、医師でも、高額融資は無理です。)
 私には、これらすべてがありませんでした。そこで、費用のかからない開業しかチャンスはありませんでした。それでも、この病院勤務時代にこのチャンスが3回ありました。私の後任の整形外科医は最後まで見つかりませんでしたので、そのたびに、事務長や院長に多大な迷惑をかけたことをお詫びします。
 1回目は、整形外科を開業していた先生がお亡くなりなり、そのままの医院継承です。医院の形態が古く、(現在ビンテージ家具として高額な値段で売られている白枠のガラス医療ケースもありました。)亡くなられた奥様が、医院の続きの家に住んでいて、とてもそのままでは出来ないとあきらめました。2回目は、西窪病院を辞められた産婦人科の先生から、医院を立てるので、開業しないか と誘われた話でした。話し合ってゆくうちに医院もできて、現実的に可能性は高かったのですが、金銭的な契約など、細かい話になると、うやむやにしてしまう方でしたので、最終的に話は流れてしまいました。3回目は、すでに医院が立っており、開業する整形外科の先生を探していると言う話が来ました。場所は当時から住んでいた所沢で、実はこの建物は、時々食事するファミレスの隣にあり、私は知っておりました。歯科医院を、2人で開業しようと大きめに建てられた建物だったのですが、その歯科医師の方が、お亡くなりになられたため、空いたままになっていました。医学関係の雑誌などに公募していなかったので、知られていなかったのです。歯科医院としては、大きすぎて、入る方がいないということでした。亡くなられた方の友人が、たまたま整形外科のパートの先生として私の下で勤務していましたので、その話しが回ってきたのです。手術を一緒にしているときに、突然、誰か所沢で整形外科を開業したい人を知りませんか?と言い出したので、思わず、“はい、私”と 手を挙げていました。
 整形外科の医院としては、レントゲン室も、待合室も、診察室も狭かったのですが、すでに、照明、冷房などすべて完備(=内装費が全く要らない)しており、レントゲン装置や、リハビリの器械などの中身だけを用意すればよい、保証金も分割でよいと言うことでした。しかし、それでもお金はかかります。資金のめどが立つまで、少し待ってもらい、ようやく開業する段階にこぎつけたのです。西窪病院に勤務して既に9年目でした。
| コーヒーブレイク | 16:19 | - | - | - | - |
コーヒーブレイク
111、私が整形内科医になったわけ4

 脊椎班に入って、興味がわいて、私の専門?(名のある先生にとっては、ライフワークと言います。)となったのが、痛みの治療です。この時期以降、この方の痛みはどこが原因なのだろうか、どうしてこのような痛みが出るのだろうか、と考えながら、臨床を行ってゆくことになります。
 脊椎の中には、脊髄が走っていて、運動や、感覚の神経が通っています。これらの感覚を支配するのが脳ならば、その通り道で、強い影響を及ぼすのが、脊椎の部分です。この部分の障害で、運動能力も落ちますし、感覚も悪くなりますし、痛みも感じます。中でも、痛みを訴えてくる方が一番多いので、自然と“痛み”の治療が中心になったのだと思います。

 5番目の病院の上の先生は、腰痛の患者さんを入院させたら、まず、硬膜外ブロックを行い、改善しなければ、手術をする治療方法を取っていました。硬膜外ブロックの手技は、硬膜外麻酔と同じですので、すぐに自分のものにすることが出来ました。これが、神経ブロック治療を本格的に取り入れるきっかけになり、治療法の柱になってゆきます。
 この病院は、病床も少なく、都下にあり、研究をするために赴任したようなものです。(=医局の方針で、研究をしている者は、優先的に大学病院の近くの病院に勤務できました。)仕事も遅くまでかかりませんでしたので、可能な限り、慶応大学病院に通い、深夜12時前後まで、研究に没頭することが出来ました。前にも述べましたが、それでも、基礎の研究では、時間が足りなかったと言うのが、実感です。医局室の隣が研究室でしたので、いろいろな先生と顔を合わせた時期でもあります。特に、膝班の先生は、カンファレンスのあと、医局に陣取って、12時ごろまで、延々と学問的な話を続けていたのが印象的でした。カンファレンスは別のところで行い、そのあとも医局に残って延々と議論?を続けるのです。次の慶応大学病院勤務になって本格的に参加した脊椎班のカンファレンスはあっさり終わっていましたので、つくづく膝班に入らなくてよかったと思い直した時でもあります。

 研究に挫折して、止めたのも、この病院勤務時代です。その後、慶応大学病院に6ヶ月勤務した後は、研究も止めていましたので、地方の病院勤務が決まっていました。しかし、このまま、地方の病院を回っていても、将来意味がないと考えて、慶応病院退職と同時に、思い切って医局員を止めたのです。医師になって、8年目でした。専門医になってはいましたが、まだまだ未熟で、わからないことも多い時期です。医局を辞めるということは、自分で病院に就職して、自分の責任で、仕事を切り開いていかなければなりません。後ろ盾、保証がなくなるのです。この学年で、医局を辞めて開業する者はいても、ただいきなり止めて、次どうするか決まっていない者など通常おりません。私は、止めます と宣言した時に、次が決まっていませんでしたので、他の先生からいろいろ心配していただき、いくつかの病院に 来ないか と誘われます。そして、慶応病院勤務の時からパートに週2日行っていて、なじみの深い西窪病院に決めたのです。(=今度はパートではなく常に勤務すると言うことです。)この病院は、当時の院長先生が、慶応大学出身の外科の先生で、すべての科が慶応大学のパート病院でした。パート病院とは、大学勤務の先生の給料が少ない、あるいは無給なので、生活をするために、給料をもらうために医局が確保している病院です。関連病院と違って、正規の職員を送ることはなく、悪く言えば、関連病院よりも格下です。

この西窪病院の話をしてみます。
 この病院は、病床は、100床ほどで、昭和35年設立でしたので、当時の狭い規格に病室が出来ている上、外来、医局も狭く、とても居心地がいい状態ではありませんでした。麻酔科の先生が勤務していなかったため、なぜか整形外科の麻酔をパートに来ている外科の先生が行っていました。しかし、来られている先生は充実していました。パートに来ていた他の先生は、慶応大学の医局所属の上の先生で、医局を辞めたといっても、引き続き、勉強しながら、仕事することが出来たのです。
 私は、8年目でしたが、他の常勤の先生は、外科(=院長)、内科、泌尿器科、小児科、産婦人科一人ずつだけで、しかも、ほとんど自分の父親ぐらいの年齢でした。+ほぼ同時に赴任してこられた、放射線診断科の先生(こちらも他の病院を引退してきた年齢の方)でした。そして、なぜか、病院の経営を取り仕切っている、やり手の事務長が中心にいて、皆をまとめていました。(この事務長には、器械の購入、パートの先生の給料、など、金銭面を含めてわがままを聞いてくださって、いろいろお世話になりました。)
 また、当時から泌尿器科が有名で、俳優の松田優作さんが亡くなった病院でもあります。この数年前に、泌尿器科が、次の教授候補をめぐって、医局員が二つに分かれた事件?が起きております。詳しいことはわかりませんが、教授になれなかった先生のほうを支持していた医局員は、全て慶応から追い出されて外の病院勤務になったと聞いています。この泌尿器科の先生は、かなりの政治力を持っていて、そのなれなかったほうの先生を支持していたそうです。慶応の中の 白い巨塔(この物語は確か1970年以前に書かれていて、当時から有名です。) と呼ばれた話です。 整形外科では、次の教授の話は、誰になるのだろうか と格好の噂話にはなっても、具体的に支持して走り回る医局員などはなく?皆興味津々と見守るだけですので、白い巨塔のようになるはずがありません。
 その縁、コネックションもあって?勤務してまもなく、泌尿器科の若手の先生(それでも私の先輩で、その奥さんが私の一学年上の同じオーケストラ部の方でしたので、結婚式でなんと皆で演奏していました。)が常勤となり、さらに数年後、事務長?の発案で、腎臓透析を始めて、新病棟を作って、常勤の先生を2人迎えて、どんどん大きくなってゆきました。(泌尿器科と腎臓内科で、腎臓系を強くしたのは、良い案だと思いました。)一方、どの病院でもそうですが、売り上げの上がらない、小児科と、産婦人科はなくなりました。さらに、院長の婿殿が、消化器内科で赴任してきて、今は、理事長となり、その若手の方の泌尿器科の先生が、院長となり、病院も新しくして、現在は、武蔵野陽和会病院となっております。
| コーヒーブレイク | 09:13 | - | - | - | - |
コーヒーブレイク
110、私が整形内科医になったわけ3

 4番目の出張病院時代の話からの続きです。

 この病院は、外傷中心の病院と紹介しました。前回の手の外科の症例もほとんどが外傷です。
 この病院勤務で、一人で、自分が中心になって手術をする実力が付きました。つまり、上の指導する先生がいなくても、ある程度の手術なら助手とともに出来る と言う意味です。エピソードを2つお話します。
 医師になって2年目の先生に、深夜に、下肢の開放骨折がきた と呼び出されました。この病院では、緊急を要する例は、夜中でも手術が始まります。つまり、他では手に負えないような重症例がくる、3次救急病院です。開放骨折とは、傷から骨折している骨が見えたり、骨が皮膚の外に出ているような骨折です。駆けつけたところ、前期のイメージから悪い意味で程遠く、膝の関節部分で、ほとんど切断寸前(=不全切断)状態でした。幸い、神経血管は切れていませんでしたが、膝の下腿骨側はばらばらに砕けていて、皮膚も大腿側と一部しかつながっていませんでした。当時、私は、5年生の終わりでしたから、まだ、専門医でもなく、専修医という立場です。集まったのは、2つ下の先生と、その2年目の先生だけでした。このひどい状態を見て、上の先生を呼びましたが、誰も応援に来てくれず、仕方がないので、私が中心になって、手術を始めたのです。まず、徹底的に洗浄します。(感染を確実に防ぐことが、この病院のモットーでした。)感染を防ぐため、徹底的に1万リットル以上のイソジン(消毒薬)を薄めた液、生理食塩水液などで洗います。泡で洗う洗浄装置があって、それを使います。洗浄だけでも、30分以上かかります。その後、下肢の血を止めて、(駆血といって、腿を縛って止める装置があります。血を止めておく時間制限があります。)1個1個の骨を、パズルのように組み合わせて、キュルシュナー鋼線と呼ばれる針金の線で留めてゆきました。そして、元の形が完成したのです。非常にうまくいって、駆血の時間制限内に出来たのです。
 2つめは、首の手術の話です。首の椎間板ヘルニアを前のほうから骨とともに削ってとり、削ってなくなった部分に、骨盤の骨をとってきて骨移植する手術です。このとき、私は、6年目になっていましたが、脊椎の専門の上の先生は、ひとつ上の先生しかいませんでした。はっきりいって、首の手術を行うには、ふとりとも学年的に経験不足でしたが、私が術者になって、あっさり順調に終わってしまいました。結果ももちろん良好でした。
 このときから、2,3年が、一番、自信に満ちて、怖いもの知らずで、メスが切れた時期と思っています。こののち、手術の怖さ、危険さ、などが加えてわかってきて、慎重になって時間もかかるようになってゆきます。

 また、この病院勤務の時期に、専門分野(=班)を決めました。
 以前述べたように、膝班は、3番目の出張病院で入ることを止め、手の外科班は、定員一杯であきらめました。他には、股関節、腫瘍、肩、脊椎、そして新しく出来た足班がありました。
 腫瘍班は、避けたいと思っておりました。腫瘍=がん に興味があったら、外科、内科を選んでいましたし、整形外科の病気では、死なない が、私のモットーでしたから、選ぶ気はありませんでした。
 迷ったら、脊椎でした。だれが来てもOKが班の空気でした。脊椎の手術が出来たら、どの場所の手術も怖くない と考えていましたので、最終的に脊椎班を選んだのです。実は、脊椎の手術は、経験数が少なく、手薄の分野でもありましたので、手術の腕も上がればよいとも考えておりました。が、これ以降、5番目の出張病院、慶応病院、そして、最後の西窪病院と、手術をしてまいりましたが、時間がかかるような、大きな手術はほとんど機会に恵まれず、結局、脊椎外科医としては、一人前になれませんでした。
 脊椎班に入って、研究はと言うと、生化学班に入り、基礎の研究をはじめることになりました。休みの日や、忙しい勤務が終了してから、慶応病院の医局室の隣の研究室に通うことになります。基礎の研究で行ったことは、細胞の培養、動物実験での培養細胞の移植(=椎間板の細胞を培養して、ウサギ、犬の椎間板に移植する実験)。椎間板の酵素を分離する実験です。(試験管振り、遠心分離、カラムクロマトグラフィー、電気泳動など、化学の実験で行うことを一通り、行いました。)つくづく、学生時代、しっかり勉強しておけばよかったと悔やんだ時期でもあります。実は、化学、物理は高校時代から大の苦手で、大学の時はほとんど0に近い点数でしたから、(それでも進級はできました。)基礎知識はほとんどなく、まるでわからないのです。いまさら、学生時代の教科書をもう一度勉強する気にもなれませんでした。あまりの知識のなさに、困っていましたが、そこで探し当てたのが、ブルーバックスシリーズです。この本は、読みやすくなっている専門書と言うのがよいと思います。知識が全くなく読むと、おそらく難しすぎて書いてある内容がよくわからないはずです。医学に関連ある項目は、出来るだけ多く読み漁り、おかげで、基礎知識は最低レベルは確保できました。特に、化学方程式と呼ばれるものは、見るのもいやだったのですが、化学の面白さもわかる様になり、読み取ろうとする力が出てきたことには驚きでした。そして、研究もいろいろ行ってくると、今まで何が書いてあるかまったく解らなかった、基礎の論文の内容がわかるようになったのです。(今はもう忘れてしまいましたが・・・)結局、この研究は、途中で挫折して論文にまとめられませんでした。(その研究途中の時点でもまとめれば、博士論文は取れると言われたのですが・・・)
 一方、他科の力ある教授の下では、細胞培養の手技の確立だけで博士論文になっていたのは驚きです。私の軟骨細胞の培養を行ったその段階だけで論文になって博士号を取っているようなものです。しかし、他方では、生理学教室(基礎医学)に行った同級生の博士論文は、あらゆる化学の方法を駆使してデータをそろえていて、さすが基礎医学者と感嘆したものです。(自分も化学の実験を行っていたので、その方法論がわかったのです。)ちなみに、この同級生は、内の学年の中では、最も早く、教授になりました。私の同級学年は、学生時代は、天才肌の方もいなく、ぱっとしませんでしたが、かなり、教授が出ていると思います。ひとつ上の学年の方が優秀といわれていましたので、わからないものです。

最後に、
 ここでつくづく感じたことは、基礎の研究は、臨床(=病院勤務)をしながら合間に行うぐらいでは、とても成し遂げられない と言うことです。臨床から離れて、研究に没頭するようにしないと、思うような研究が出来ませんでした。一度データが出たので、もう一度確認の実験を行って確かにしたくても、その時間がないのです。一回だけのデータで,発表しなければならないことになり、データに自信がないことも、発表の時、質問の返答に失言した理由のひとつです。
| コーヒーブレイク | 17:52 | - | - | - | - |
コーヒーブレイク
109、私が整形内科医になったわけ2

 今回も引き続き、私の経歴を述べてゆきます。前回は、3番目の出張病院までの話でした。

 4番目の勤務病院は、外傷中心の病院で、ここでも貴重な経験をさせていただいたと思っております。今回は、整形外科でも特殊技術が要る手の外科の話しをします。
 私は、今でも思っていますが、日本で一番メスが 切れるのではないかと思う、手の外科の先生の手術に数多く、助手として立ち会えたことが一番の経験です。勤務した当初は、手の外科を専門にと考えている医局員以外の先生が、研修目的で、その先生の助手についていました。(当時の病院勤務は、医局の人事ですべて決っていました。医局員を派遣する病院を関連病院と呼び、医局員でいる間は、それらの決まった病院を次々に変えながら回ります。ただ、どうしても人数が足りない病院では、医局員以外のフリー?の先生を雇っている病院もありました。)その研修目的の先生が、病院を止めた後(やはり医局に属していないとだめと感じて、自分の出身大学の整形外科の医局に入るとのことでした。)は、私が、助手としてつくことが多くなったのです。

 1年以上経っても骨折がつかなかった時は、骨移植と言って、別の体の部分の骨をとってきて、付かない部分の骨の橋渡しをして、骨がつながることを促す手術を行います。それでも、骨がつかないこともあり、その場合は、血管(動脈)をつけたままの骨を、そのつかない部分にもってきてつながることを促す手術になります。今までお話した下腿の場合では、すねの太い方の骨である脛骨が骨移植をしてもつかないときは、その隣の腓骨を血管をつけたまま持ってきて、橋渡しをします。(=腓骨の中央部分は必要ないという話がありましたね。この場合は、隣に骨を移動するだけですから血管はそのまま切らずに使えます。)その先生は、神経や、抹消血管をつなぐことが大変お上手で、別の箇所の骨を、血管(=動脈)をつけて持ってきて、別の場所の骨の橋渡しをする手術を行っていました。別のところから持ってきた血管は、その場所の血管とつなげる必要があります。確実に血管がつながって、血流が再開しなければならず、非常に高度な技術です。これを遊離の血管柄付き骨移植といいますが、実は、この手術が出来る先生は、手の外科の専門の先生でも少ないのです。後の西窪病院勤務医時代に、その手術を他の手の外科の先生にお願いしたところ、遊離は出来ないといわれてしまいました。結局、隣の腓骨を血管をつけたまま移植することとなりました。さらに後にわかったのですが、私の同級生の形成外科の先生がこの手術を行っていて、教授になりました。(つまり、形成外科の先生が専門にそればかり行うような手術です。整形外科はそれ以外にも多くの種類の手術をこなさなければならず、そこまで専門的な技術を習得することは通常無理です。)非常に時間もかかり、間に、手を降ろして、トイレ休憩も必要です。この大変な手術にいくつか立ち会えたことは、非常に貴重な経験でした。

 骨折の時は、プレートやスクリューで固定して、骨がついた後、それをまた抜くのですが、その先生が骨折の手術を行った後、それらの金属を抜く手術を行うと、ほとんど、癒着していない(=組織がくっついていない)のです。これは、手の外科では特に重要な ア トロウマティック(トロウマティックでない=組織を壊すような方法でない)と言う手技に徹していたためです。組織がくっつかない=癒着しない ことは、腱の手術、血管神経の縫合手術には大切です。腱がくっついてしまえば、動かなくなりますし、血管がくっついてしまえば、開通しません。神経も縫合部から回復して伸びてきません。
 手の外科の手術はこの先生と、2番目の出張病院の手の外科の先生の影響を非常に受けました。手術は出来るだけ組織が癒着しないように、くっつかないように点と線で行います。特に切れた腱をつなぐ時には大変重要です。まず、腱をカンシと呼ばれる道具でつまむと、トロウマティックとなり、それでもうくっつく原因になります。小さな針で刺して持ちます。つまり点で持つのです。(2番目の出張病院の手の外科の先生のお言葉です。)皮膚は誰でもメスで線として切りますが、その後、組織を開いて傷めている部分に到達する時は、手の外科の専門の先生でも、カンシで押し広げてゆくのが通常です。ここでも、出来るだけメスで切ってゆく(=線で行う)と、組織に余計なダメージを与えることなく、くっつきにくいのです。ただし、これは、神経や、血管をそのまま切ってしまう可能性が高いため、神経血管を見極められる高度な眼力と、繊細なメス捌きが必要です。先のとがったメスは重みで切ってゆけば、神経血管を切らないというのが、その先生の持論でしたが、はっきり言って名人芸です。その後、私も真似して行っていましたが、何回か、神経を切っています。

 ノーマンズランドという言葉があります。誰も手をつけてはいけない と言う意味なのですが、指の付け根の手のひら側の部分のことです。この部分は、指を曲げる2本の腱が交差していて、切れた時に、両方元通りに縫うと、くっついてしまい、元に戻らないので、このような呼び名がつきました。そのため、通常、指の両方の関節を曲げることが出来る、深指屈筋腱だけを縫い、浅指屈筋腱はそのまま放置するのです。後の、西窪病院勤務医時代には、これを2回ほど破りました。鋭い刃物できれいにきれていれば、点と線の方法で行えばくっつかないと考えて、両方元通りに縫いました。
 その先生の持論のもうひとつが、手の外科の手術は、手術が50点で、あとのリハビリが50点と言う言葉です。手術が100点満点でうまくいっても、その後のリハビリを行わず、0点でしたら、結果は、50点となり、満足な結果にならず、落第と言う意味です。逆に、手術があまりうまく出来なくても、リハビリが100点で完璧に行えれば、何とか満足行く結果となります。
 したがって、縫った後のリハビリがさらに重要だと考えて、手術時の縫合の強度を覚えておいて、可能な限り、固定中もはずしては、動かせる範囲を動かしました。腱がしっかりつくには6週ほどかかり、その間、固定しっぱなしにすると、くっついて指が動かなくなるからです。
 結果は、2例ともほぼ100点でした。つまり元通りに握れるようになりました。ノーマンズランドならず です。

余談  その病院の勤務中に専門の分野を決めなければなりませんでした。私は脊椎外科にしたのですが、その先生と話していて、先生(=私)は手の外科に行くと思っていたと言われました。手の外科を専門にすることを考えたことも事実ですが、専門分野の応募がかかったとたんに、同級の2人が手の外科専門になると手を上げて、即時に締め切られてしまったため、後から行きます と、非常に言い出しづらくなったことが、あきらめた原因のひとつです。もうひとつは、自身が強度近眼なため、顕微鏡を見ながらの、マイクロサージェリーに目が耐えられるか不安だったことです。その先生の下に、マイクロサージェリー(顕微鏡を見ながらの手術)までやらせていただいたのですが,年を取ってからも、これをずっと行ってゆく自身がなかったのです。それ以後、マイクロサージェリーは行っていませんし、今、この年になって、近くのものが非常に見づらくなっていることも事実です。やはり、長くは持たなかっただろうと感じています。
| コーヒーブレイク | 21:57 | - | - | - | - |
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108、私が整形内科医になったわけ1

 前回は、渡辺淳一氏の本から始まり、腰の手術の自慢話をしましたが、この手術を捨てて、開業に至った経緯でも、またまた自慢?たらたらにお話します。
 手術をしないで治療をする=整形外科ではなく、整形内科とでも申し上げるのが、妥当と思います。ただ、整形内科医になるためには、整形外科の手術をよく知らないと駄目ということは事実です。どこまで、手術をしないでよいのか、どのような例が手術をしないといけないのか、知らないと駄目と言うことです。医学部を卒業していきなり、整形内科医になることはできないのです。
 そこで、また、渡辺淳一氏の自叙伝的な話を真似て、自分の今までの医師としての経歴を話してみます。
 
 医師になりたての私は、まず、5月から整形外科の医局員として、大学病院に研修医として働き出しました。今は分かりませんが、当時は、医師国家試験の合格を待ってから、働き出していましたので、4月からではなく、一月遅れでした。(ただし、外科などは、4月からすでに働かされていました。)(医局とは、教授を頂点として、それぞれの科が、独立して医師を管理するグループ?です。医局に入ることにより、医師としての、教育、研究、職場の確保を保障してくれますが、医局の指示に従って、行く病院が決まります。安心して仕事が出来る反面、自由が効かない部分もあります。)私は、5,6月と何もわからぬまま?勤務して、7月から、早くも、4ヶ月間の麻酔科研修となりました。当然、慶応大学病院の麻酔科で研修すると思っていたところ、一人だけ外の病院の麻酔科に行く枠がありまして、くじで運悪く?私に当たってしまったのです。7月から10月まで、都立大久保病院の麻酔科に勤務しました。大学病院でないため、麻酔科の医師も少なく、常勤2人で、後はパートの先生と、研修医2人ですべての麻酔を担当していました。今思うと、これが実は非常に貴重な経験になりました。まず、麻酔を担当する症例が、非常に多かったことです。大学病院では麻酔科の研修医も多く、多くの症例を経験することは不可能です。また、トップの先生が、出来るだけ、硬膜外麻酔で麻酔をかける方だったのです。おかげで、硬膜外麻酔、腰椎麻酔の手技を覚えられましたし、肺の手術の麻酔担当も経験させてもらいました。後の、自分で行う硬膜外麻酔下の手術、硬膜外ブロック治療の基礎となりました。
 麻酔科の研修後は、また大学病院の整形外科の勤務に戻りましたが、早くも、12月には、外の関連病院への出張となりました。(関連病院とは、医局が、所属する医師のために研究や、職場として確保している病院です。この制度が崩れてきている現在、病院側が、医師を確保できなくなってきて閉鎖に追い込まれていることが社会問題となっています。つまり、病院側も安心して、医師が確保できる利点があるのです。)当時の私は、はっきり言って、だめ医者です。(今でも、いい医者だとは思っておりませんが。)だめというのは、上の先生から、あいつは、だめだな、どうしようもない と言われるような医者です。学生最後の6年目に必死?に勉強したため、その反動で、全く勉強せず、遊ぶことばかり考えているような医者でした。
出張した直後は、何もわからずに、上の先生に大変迷惑をかけていました。これはイカンと思って、またまた勉強して何とかある程度カバーできるようになりました。出張一年過ぎで、何とか普通の医者に近づくことが出来ました。
この病院での経験で、役に立ったことは、まず、検査をほとんどすべてやらされたことです。MRI検査が普及している今では、数多く行う機会はないと思いますが、当時は、ありませんでしたので、関節は造影検査、椎間板ヘルニアは、脊髄造影(ミエログラフィー)、椎間板造影(ディスコグラフィー)を頻繁に行っていました。レントゲン透視下で行うことがほとんどですので、透視診断にも目を慣らすことが出来ました。私が、検査にもなれたころに、交代して勤務してきた2年上の先生が、椎間板造影がうまく出来なくて困っていましたが、下の私が代わって行うなど失礼で言い出せませんので、ずっと終わるまで待っていた記憶があります。
 2番目は、生後7日目の乳児の検診をすべてやらされたことです。指が一本多いなどは、誰が見てもわかりますので、そうではない、股関節の脱臼、斜頚(首の筋肉が硬くなって顔が斜めに固まる病気)などの予備群の選別です。生後1週間ぐらいでは、股関節脱臼も斜頚もまだ発症しませんので、予備群と呼ばせていただきます。これにより、股関節の脱臼の診察の仕方を習得できました。股関節が硬くて開きが悪い方が予備群として再検査です。斜頚は、首の左右前方を斜めに走る筋肉が硬くなっている方が予備群です。これは、思った以上に多く、再検査で、軟らかくなっていく例が多いのですが、そのまま斜頚になる方もいました。
 3番目は、入院患者さんのリハビリ依頼をすべて書かされたことです。整形外科の患者さん以外という意味です。脳卒中後の患者さんが多く、リハビリでどのくらい動けるようになるかが、わかるようになりました。後の自分で患者さんに行うリハビリの基礎になったと思います。
 以上ためになった3つは、実は上の先生がやりたくない仕事です。そこでやらされた とういう表現をさせていただきました。この病院には、1年4ヶ月ほど勤務しましたが、最後の6ヶ月ぐらいは、だめ医者からもう大丈夫だと判断されて?多くの手術を執刀させてもらいました。医学的には、肩の専門の先生と仕事が一緒に出来たことが、貴重な経験です。肩の専門の先生は少ないので、腱板断裂の手術など、貴重な手術をいくつも見せていただきました。

 次の病院は、最初の病院とは上の先生の考え方、治療方法など全く違いました。最初は戸惑った記憶があります。まず、手術ですが、前の病院では、上の先生が、ここ切れ、こうしろと一つ一つの動作を指示していたのです。そのため、自分で進んで行うことが、出来ないことに気づきました。今回の上の先生は、私が行うのを、見ているタイプでした。そのため、自分で考えて、一つ一つの動作を行うことが必要です。最後までこれをすべて克服することは、出来ませんでしたが、かなりできるようになったことも事実です。さらに、上の先生が、患者さんが納得するまで、一人に30分もかけて話すこともあったので、外来が長くかかり、手術の開始時間に医師が私一人しかいない状況に陥ったことも何回かありました。おかげで、アキレス腱の手術は一人でできるようになりましたし、膝の手術も一人で行っていました。当時の膝の手術は、関節鏡でまず、半月板が切れているかどうか確認して、切れていたら少し皮膚を切って、直接見ながら切除する方法でした。半月板を切る時は、膝をひねって関節を開く必要があり、これをどうやって、一人で出来たのか今でも不思議です。膝の手術でも、関節鏡を見ながら、皮膚の切開を出来るだけ小さくして、手術を行う方法(内視鏡下手術)が主流になったのは、この後のことです。つまり、これが、今流行の外科系の多くが行っている内視鏡を見ながら、手術を行う方法の走りだと思います。鏡下手術の歴史は意外に浅いのです。
 ここでの上の先生方は、脊椎と、手の外科が専門でしたので、膝、肩の症例は比較的自由に手術を行うことが出来、関節外科に興味を持ったのはこのころです。さらに、どんな症例でも、可能であれば、任せておけという感じで、治療してしまう方だったので、骨肉腫、横紋筋肉腫など、大学病院でないにもかかわらず、腫瘍の症例が多く、自分で、抗がん剤の投与方法のプログラムを作成して、(これも上の先生は自主的にやらせるような指導方法でした。)治療しました。そして、足を切断したり、当時は、特注だった長いタイプの人工膝関節を入れたり、貴重な経験をさせていただきました。

 3番目の勤務病院は、肢体不自由児の施設で、ここでも、脳性麻痺、先天性股関節脱臼の重症例など、貴重な症例を経験させていただきました。
脳性麻痺の児童は、尖足位(つま先だった角度)で歩くことが多く、歩く姿(=歩容)を改善するには、アキレス腱を伸ばす手術が必要です。この手術が一番多く、切れていないアキレス腱を見た、貴重な経験です。アキレス腱断裂自体が保存的に治療され、手術しないことも多い現在、切れているアキレス腱を見たことのない先生もおられるでしょうし、ましてや、正常のアキレス腱など、見たことがない先生が多いと思います。
 余談ですが、先天性股関節脱臼の重症例は、女子が多く、しかも、きれいな子、可愛い子が多いことに驚きました。そのため、施設の中では、人気が高い子が多かったです。中には、美人で芸能人になれるような子もいましたが、股関節のレントゲンを見ると、変形が強く、(=将来的には、人工関節が避けられないほど)かわいそうでした。先天性股関節脱臼には、女性ホルモンが多いのが、関係しているのでしょうか?とにかく、きれいな子ばかり目立ちました。

 今回の締めとして研究発表の話を簡単にします。勤務した病院で、それぞれ症例を発表させられて、論文を書きましたが、何度も書き直しをさせられて、発表と、論文作成に才能がないことは、気づいておりました。この3番目の勤務病院では、膝に関する症例の発表を行いましたが、膝の専門の先生方の、カンファレンスで見てもらったところ、方法論から否定されて、大幅に変更させられた経緯があります。発表をしたものの、論文にはまとめられず、膝の学問的な難しさを痛感して、膝を専門とすることをあきらめた時でもあります。
 ついでに話しますと、4番目の勤務病院でも、骨盤骨折の症例をまとめて発表して、論文を投稿したのですが、投稿後に、別の大学の教授から内容にクレームがきて、変更と言う失態?となり、この瞬間、発表、論文に本当に向いていないのだと言うレッテルを自分に貼ったのです。追い討ちをかけるように、続いて、博士論文となるであろうと考えていた研究の発表を行った時も、質問の回答に失言?をしてしまい、上の先生にひどく怒られて、研究を止めて、医局を離れる決心をしたきっかけとなりました。これ以降、私は発表、講演などを一切行っておりません。 
| コーヒーブレイク | 10:59 | - | - | - | - |
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107、私が整形外科医になったわけ2

 今回は、失楽園、愛の流刑地などで、今有名な恋愛小説の作家、渡辺淳一氏の話と、それに関連する私の話です。
 渡辺淳一氏は、25年程前も、すでに有名でした。当時は、医者出身の作家と言うことで、白い影、白い狩人、白い○○など、白い○○シリーズが有名で、医学関係(+恋愛が絡む)の作品が主でした。もともとは、札幌医科大学で、整形外科の講師にまでなっていた方です。私は本をほとんど(全く)読まないので、新しい作品は、実は知らないのですが、学生だった当事は、かなり読んでおりました。渡辺氏の作品は、文章が簡潔で、読みやすかったです。論文は、簡潔で無駄なく、わかりやすい文章ですので、共通しているのだと考えています。以前、ノーベル賞候補と言われながら自決された三島由紀夫氏の作品を読もうとしましたが、文章表現がすばらしすぎて、1ページ進むのに、数分かかり、とても読めませんでした。簡潔で、無駄がないということは、すらすらと読み進むことが出来て、情景がどんどん頭の中に展開してゆくことです。デビュー作は、“光と影”と言う作品で、確か、戦争で片腕をかなりだめにした2人の方がいて、一人は、手術で切断して、腕をなくしてしまい、もう一人は、動かなくなっても腕をつないで残したのです。その後の人生の違い(出世したかしないかなど)を書いたものです。結論は、腕は動かなくてもちゃんとあったほうがよい と言うことでした。“白い狩人”は、有名な話ではありませんが、印象に残っている本です。新進の外科の女医と、その下で働く看護師(看護婦)がそれぞれ日記形式で物語を進行してゆきます。女医はレズビアンで、嫉妬心から、バレリーナの下肢の腫瘍を悪性と判定させて、切断してしまう話でした。内容はともかく、二つの視点で物語が進行しているところに、新鮮さを感じました。
 中でも、本人の自叙伝的な白い○○と言う本(タイトルを忘れました)が、非常に印象的でした。医師になりたての頃のいろいろな経験が書かれていました。読んでいくうち、整形外科は面白いと思い込んでしまったのが、私が、整形外科を選んだきっかけでもあります。

 物語の中で、一人で麻酔をかけて、一人で、腰のヘルニアの手術をしたときの話が在りました。腰椎麻酔で行っていて、麻酔が上のほうまでかかりすぎて、呼吸が止まって?苦しくなってしまい?手術の途中で手を下ろして、管理が大変だったというようなエピソードがありました。
 実は、後になって、これと全く同じように手術をする機会を得られた?やらざるを得ない状況であった?私がいます。手術には、通常、手術を行う執刀医(=術者)と、その助手をする医師、器械を手渡す介助の看護師、ここまでは手を洗って滅菌手袋をして清潔で仕事をしています。他に麻酔をかけて管理する麻酔科の医師、外回りの仕事をする看護師(=よくドラマで、医師の汗を拭く係りの方です。汗が術野に落ちると不潔になるため、これを防ぐことは重要ですが、ただ、これがもちろん仕事のメインではありません。)、したがって、通常は、計5人で行います。ところが、西窪病院(現陽和会武蔵野病院)では、麻酔科の常勤医がおりませんでしたので、可能な限り自分ひとりで麻酔をかけていました。助手の医師も、一人で整形外科を担当していましたので、パートの先生がいない時は、執刀医私一人が医師ということになります。もちろん、器械だしの看護婦と、外回りの看護師はいますので、一人で手術をするといっても、最低3人で手術を行います。助手が必要なときは、別の看護師さんに手伝ってもらい、4人で行いますが、医師はやはり私一人です。
 西窪病院勤務医時代の後半は、腰の手術は、この人数で行う機会が非常に多くなっていました。まず、麻酔を自分でかけるのですが、腰椎麻酔だけで、腰の手術を行うことは、実は難しいのです。腰痛麻酔は、下肢の部分には、よく麻酔がかかるのですが、腰や、背中の部分の麻酔がかかりにくくなります。そこで、少し麻酔の量を増やすと、予想より上まで=背中から、首まで麻酔がかかってしまうことがあります。脳幹部まで麻酔がかかると、呼吸が止まってしまうのです。話の中では、このような状態が起こったと、推察します。それを避けるためには、腰椎麻酔の量は増やさずに、硬膜外麻酔を加えます。硬膜外麻酔では、麻酔の量を、かなり多く入れても、上まで麻酔がかかることはありません。この麻酔だけでも、手術は可能なのですが、麻酔の効き出しが遅い上、実際にヘルニアで圧迫されている神経には麻酔がよくかかりません。肝心のヘルニアを取る場面で、非常に痛がって、手術に差し障りがあります。腰椎麻酔は、効き出しが早く、その神経の部分まで麻酔がかかるのです。

 私は、直に麻酔がかかるように、原因部位の神経まで充分に麻酔がかかるように、まず、腰椎麻酔を行い、それよりも上部の椎間から、硬膜外麻酔をかけて、腰の皮膚まで麻酔がかかるようにしておきました。同時に、チューブを入れておき、(チューブはもともと清潔ですが、外に出ている部分は準清潔=不潔扱いになりますので術野に見えないようにします。)腰椎麻酔が切れてきたら、そのチューブから硬膜外麻酔を追加します。そうすることで麻酔時間も伸ばすことが出来ました。
 ただし、手術は、両肩の前の部分と、骨盤の両サイドの4点で支えるフレームにうつ伏せで載ってもらう体勢なため、麻酔がかかっていない上半身が、次第に苦しくなって、我慢が出来ない方は、30分も立つと、苦しい、辛いと訴えだします。鎮痛剤、鎮静剤で対処しますが、我慢強い方でも、1時間半〜2時間が精一杯です。
 つまり、その時間内に手術を終わる必要があります。椎間板のヘルニアの手術は、なれると30分以内で可能です。ところが、腰部脊柱管狭窄症の手術となると、全く別になります。保存的に手術無しで治療を行うのが、第一選択であった私は、簡単に終わるような椎間板ヘルニアの手術はほとんどなく、保存的治療を行っても改善しないような、非常に圧迫の強い腰部脊柱管狭窄症の手術例が多かったのです。
 保存的治療は、外来でのプロスタグランディン静脈注射、カルシトニン製剤注射、超音波治療などをまず行います。改善しない時は、入院して、硬膜外ブロック治療を行い、チューブを留置して麻酔剤をさらに1週間ぐらい入れ続けます。それでも改善が悪い時は、加えて、神経根ブロックを行うこともありました。(ホームページなど参照)

 手術は、通常のヘルニアの手術とは違い、椎弓の変形が強いため、後ろの黄靭帯から開けることはできないので、いきなり、エアドリル(歯医者で嫌な音を出して歯を削るドリルと同じです)で、骨を削ってから、その靭帯を開いてはがして、圧迫を取ります。真ん中の棘突起は残して、片側ずつ圧迫をはずしてゆきます。最初の圧迫部位の開放(=開窓)が完了すると、個人各々の神経の位置、皮膚からの深さ、骨の変形具合がわかりますので、次の反対側の圧迫を取り除くのは、かなりスムースになります。この麻酔で、通常、2椎間、4箇所までは行えました。我慢強い方なら、2時間ぐらいで、3椎間、6箇所まで開窓出来た記憶があります。

 最後は自慢話になってしまいましたが、西窪病院勤務時代の後半は、このような患者さんが非常に多く集まってきて、保存的に治らない方もかなり大勢でいらして、多い時は、週一回のペースで、一人で腰の手術をしていた記憶があります。
 自慢ついでのこの手術の話をさらに補足させていただきます。
 実はこの手術、手術時間も短く、麻酔も背中から下半身の部分麻酔、手術も腰の後ろの部分だけですので、外科の腹部の手術に比べて、身体への負担が非常に軽いのです。加えて、血液による神経圧迫や、手術後の感染症を防ぐ目的で、手術した部分に、血液がたまらないように、吸引する太いチューブ(+吸引するバッグも外に着ける)も、左右に1本ずつ入れておきます。
 今は、さらに小さな切開で、内視鏡下で侵襲をより少なく負担がかからないように行うことが主流ですが、時間がかかるため、麻酔は全身麻酔ですし、うつ伏せになっている時間も長くなります。それを考慮すると、少しぐらい皮膚切開が大きくなっても、時間が短く、より大きな視野で確実に手術が行える方がよい場合もあります。また、硬膜外麻酔のチューブを残しておくと、そこから痛みを取る麻酔剤を入れられますので、術後の痛みが非常に楽な上、血栓症の合併症もある程度防ぐことが出来ます。特に下肢の手術後に、血栓が肺に飛んで、肺塞栓症と言う命にかかわる合併症が問題となっていて、今はそれを未然に防ぐ薬も出ています。私自身は、硬膜外麻酔で手術を行っていたおかげ?で、一例も遭遇しておりません。
 手術後は、内視鏡下手術の場合は、すぐに歩くことが出来ますが、この場合は、後ろの骨の部分を、何箇所か開窓して、弱くなっていますので、1週間はベット上で安静にしてもらい、その後、硬いコルセットをつけて動いてもらっていました。しかし、術後硬膜外に麻酔剤を入れ続けていると、痛みがないため、手術したその夜に勝手にトイレに歩かれた方も数人におりました。(運動神経まで麻酔がかからないため歩けます。)硬膜外のチューブは、身体に止めておけるので、大丈夫なのですが、血液を引くチューブとバックは、体から離れて転がってしまっていることも在りました。今考えると、もっと早期に、動いてもらっても良かったのかもしれません。
| コーヒーブレイク | 17:37 | - | - | - | - |
コーヒーブレイク
膝の痛みの話の前に

 次は膝の痛みの話に移るのですが、膝の話だけでも、いろいろあって、足痛の項目のように、膝痛と独立させてもよいぐらいです。しかし、あえて、今回は、下肢痛の中に含ませていただく予定です。また、いろいろあるため、どれから話を始めてよいか、迷っていますので、まず、膝とは全く関係ない私事の話から始めて、膝の話に結び付けたいと考えます。医学関係の話ですが、今までの話とは関係ありませんので、コーヒーブレイクとさせていただきます。

106、私が整形外科医になったわけ1

 一昔前といっても、私が医師になってかなり経ってからですが、薬師丸ひろ子が、新人医師の役、真田弘之が患者役だった、“病院へ行こう”という映画がありました。この映画、整形外科の様子が、非常によく風刺されていて、=リアルに表現されていて、面白かったことを覚えています。当時は、後輩に、面白いから見ろ と薦めていました。
 映画の中では、肩の外転装具を着けている荒井注、ハローベストをつけている嶋田久作など、珍しい症例=そう簡単に見ることができない例です。が、ひとつの部屋に集まっていていましたし、薬師丸ひろ子が、大腿骨骨折の手術の時に使う、キュンチャーと呼ばれる金属の棒を埋め込むための骨を削るドリルをカメラの方に向かって回す姿もありました。“桃栗3年柿8年“をもじった、”腰痛3年膝8年、私は(患者の)プロだよ“という表現も面白かったですし、ベンガルが病棟を回っている時に話した、この患者、ステっちゃった=ステルベン、ドイツ語で死ぬ と言う意味 などのせりふ、も実際によく使っていますし、とてもリアルだったと覚えています。
特に、薬師丸ひろ子が言っている、次のせりふが、整形外科を目指す理由になっていてもおかしくないのです。
“整形外科で、死ぬ人は非常に少ない。出来れば全員、元気にして帰したい。”と言う言葉です。

 実際、一般の病院に勤務していたころは、死ぬのは、年に2、3人ぐらいだと思います。これは、死ぬ病気である”がん”=骨肉腫などの、骨や筋肉などの悪性腫瘍の症例は、内臓のがんに比べて、非常に頻度が少ないためです。=症例はほとんど専門病院や大学病院に送られます。しかも最近は、抗がん剤治療の進歩で、生存率が高まっています。骨にがんが転移する(別に大元の内臓のがんがあり、そのがんが骨に移る事)場合はときどきありますが、がんの原発部位がわかっている時は、そのオリジナル部位の専門家の先生が最後まで面倒を診ることが多いのです。骨への転移がんとわかっているにもかかわらず、オリジナルの原発がわからない時は、整形外科で最後まで診ますが、こちらは頻度が非常に少なくなります。加えて、がん以外では、整形外科の病気はもともと死ぬ病気ではありませんので、お亡くなりになる確率は、非常に少なくなります。
 しかし、私の場合は一時期、これに当てはまっていませんでした。開業直前まで勤務した西窪病院(現陽和会武蔵野病院)は、整形外科の入院で死ぬ方が多かったです。外科の常勤の先生は、高齢の院長だけであったこと、内科の先生も、私よりもはるかに先輩で、状態の悪くなった患者さんを頼みづらかったこと、症例も、高齢の患者さんが多かったこと、などが理由です。
 例えば、入院のなるような痛みで来られた患者さんも、整形外科の病気ではありませんと断言して、外科や、内科の先生に頼みづらい のです。股関節周囲の激痛で、整形外科を受診してきた、老婦人がおりましたが、入院させた後、他科に頼むまもなく、その晩お亡くなりになったこともあります。その時に、入院時に一緒に診た先輩の整形外科の先生は、整形外科の病気ではないのではないか とおっしゃられたのですが、整形外科の病気ではありませんと断言して、外科や、内科の先生に頼みづらかったのです。また、リウマチで入院していた患者さんの状態が徐々に悪くなったことがありました。これも、状態の悪くなった患者さんの全身管理を他科に頼みづらかったため、整形外科入院のまま お亡くなりになりました。一番驚いたのは、90過ぎの男の患者さんが、整形外科で入院されていたのですが、次の日の回診時にベットが空なので、婦長に聞いたところ、昨晩亡くなられました。と言う返事です。主治医の知らぬところで亡くなっていたという珍事もありました。

 整形外科になった理由のひとつは、整形外科の病気では、死なない =手術後の管理が楽 と言うことでもあります。外科の病気では、がんが多いため、内臓の時間のかかる手術が多いため、術後の管理が重要で、泊り込むことも多々ありますが、整形外科では、手術時間が短い症例が多く、さらにもともと状態は良好な方が多いため、術後管理が他科に比べて楽なのです。手術が出来る(医者になったからにはメスを持ちたいと思う先生は多いです。)上に、術後管理が楽=自分の時間が多く持てる と言うことになります。
 一方、整形外科は、内臓の病気を診ません。医者と言ったら、内臓の病気を治す ことが、メインです。つまり、内科、外科がどうしても中心です。その中心からは完全に外れてしまいます。メインになることは、諦めなければなりません。しかし、内臓の病気を中心に診る先生からすると、整形外科は守備範囲が広すぎて、わからないので、敬遠される科でもあるのです。この部分では、逆に優越感?に浸れるのです。
| コーヒーブレイク | 10:15 | - | - | - | - |
コーヒーブレイク
今回は、全く医療とは関係ない話です。

99、受験シーズンが終わってふと思う

 自分には、受験をする子供がいるわけではないのですが、職員のお子さんや、自分の甥が、受験でしたので、感じたことを述べてみます。
 母親の中には、お子さんが、受けた学校すべてに落ちて、その場で失神した方がいたとも聞きましたし、めまいなどの自律神経に不調をきたした方もいました。出来れば、希望のところに受かることが一番ですが、試験は振り落とすためにある のです。

 私自身は、中学受験をして、私立校に受かったのですが、今、年を取ってみて、こうではないかと思うところを述べてみます。

見極めが肝心
 自分のお子さんが、どれだけ出来るのか、頭がよいのか、見極めが、肝心です。
 頭のよさは、理解力、記憶力、そしてとっさの判断力(=気転が利く)と感じています。
 このうち、学力、勉強が出来る につながるのは、理解力、記憶力と考えています。とっさの判断力など、私にはあるとは思えませんので。気転が効いて、うまくその場を乗り切れる方は、非常に頭がよいと感じてしまうのですが、そのような方が、必ずしも学力(学歴)があるとは限らないのです。
理解力(物覚えのよさ)は重要だと今も感じています。共に仕事をしていて、私の言うことが理解できない、理解することに時間がかかる方が確かにいるのです。一方では、一言、言うだけで、私の意図することまで、わかって行動できる方もいます。
 記憶力、これは、若いうちは、あったほうがはるかに得です。一度、目や耳からから入ったことを覚えていられると、後からあまり勉強しなくても、できると言うことになります。記憶力は、年を取るとともに、薄れていくに決まっています。私が、記憶力がよかったのは、小学校の時までのようです。当時の中学への進学塾は、日進と、四谷大塚が、2大巨頭でした。その2つの塾に入るための塾がまたある状況で、私が行ったのは城南能率と言って、攻玉社(こううぎょくしゃ)中学高校(当時は無名でしたが、今は進学校で有名なようです。)の中で行っておりました。その塾でやったことを覚えていて、その知識だけで、日進に受かって、通っていた記憶があります。中学、高校、大学と進むにつれて、頭の中にもやがかかるように、記憶力が落ちていったと感じております。
 自分のお子さんが、どれだけさえているのか、出来るのか、見極めが肝心です。
 そして、一番頭がさえている時が勝負です。幼稚園の時に、この子出来ると感じたならば、小学校受験をさせるべきです。小学校高学年になってから、頭がさえだしたら、中学受験をさせるべきです。

頑張らないこと
 何年間も、勉強、勉強と、頑張らせ続けると、どこかで力がつきます。力が尽きないようにどうすればよいかと言うと、強いモチベーションがいります。幼稚園、小学生には、これは無理と考えます。
 頑張っていると言う感覚がなければ、続けることが出来ます。楽しいと感じているなら言うこと無しです。私は、中学校受験を頑張ったと言う記憶がありません。城南能率の塾には、長い休み時間があって、そこで、みんなと、酒蓋(メンコの代わりにひっくり返して取り合う)、ドッジボールをしたり、鉄棒や、テニス(一学年上の先輩で、攻玉社中学に入った方がいて、軟式テニス=今はソフトテニス?をやらせてもらいました。)校舎の鴨居のところまで、ジャンプして届く競争をしたりして、おかげで、非常に身が軽くなり、足も速くなりました。いわば、遊びに行っていた様な感覚でした。日進のテストもろくに勉強せずに受けていましたので、その塾でやったことのある問題が出ると、非常に点数がよくなる、知らない問題が出ると、落ち込むという繰り返しでした。
 受験に頑張ったと言う記憶がなければ、その後頑張ることができます。おかげで、中学、高校と、成績がよく、運よく医学部にいけました。しかし、高校2年の時に医学部を目指すと決めてから、頑張ってしまい、医学部に入ってからは、気が抜けたように勉強もあまりせずに、クラブに3つも入って成績は、超低空飛行で、進学ぎりぎりの点数で5年間やってきてしまいました。6年目になって、これはイカンと思い、必死に国家試験の勉強を中心にまた頑張ったため、医者になってから再び頑張れずに、最初の2年間ぐらいは全くの駄目医者でした。
 要は、人間頑張ると、どこかで休みを取らないと持たないということです。
 モチベーションは、というと、その学校に行けば、大学まで受験なしでいけるとか、皆の行く公立の学校に行きたくない などで充分です。ただ、これは、受験する本人が思わなくては駄目ですので。この最低限のモチベーションもないようですと、やる気無しとなってしまいます。

ある程度のチャレンジ精神
 これも重要です。絶対受かると言うところを受けると、案外落ちてしまって、ガックリ来て、挫折を味わいますが、もともと、無理ではないかと言われるところを受ければ、受かった時の喜びもひとしおですし、落ちでも、諦めがつきます。人生すべてチャレンジ精神です。ただ、無謀なチャレンジは駄目です。あくまでも可能性があることをチャレンジするのです。私も、この中学は無理ではないかと担任の先生に言われていたのですが、受かりました。医学部も自分では無理かなと思いましたが、いけました。

向き不向きがある
 これは見極めの中に入りますが、問題の傾向で、自分に向いているかどうかを判断します。中学受験ぐらいになると、これは本人が一番わかると思います。当時は、御三家と言われる、武蔵、麻布、開成は、東大受験問題傾向の、難解な問題が、少数出ます。(算数)ところが、慶応は、少しひねった問題がたくさん出ます。私は、難問には、全く歯が立ちませんでしたし、慶応よりレベルが下と言われた学芸大、駒場東邦の入試問題より、慶応の問題の方が自分にあっていて解き易かったのです。自分がどの問題に向いているか、判断し、向いているところを受けることが一番なのだと思っております。

 受験のことを元に勝手な意見を述べてみましたが、これら、すべて人生に共通することではないかと感じております。
| コーヒーブレイク | 08:36 | - | - | - | - |
コーヒーブレイク
私が専門に診てきた腰痛関連の話は、一旦、終わります。
これからは、多くの患者さんを診て、わかってきたことを述べます。同じ整形外科の中でも、専門ではないので、不確かな部分もあると考えますが、患者さんから得られた(教えられた)事実を述べてゆくつもりです。

76、開業して、驚いている?こと

 午後の外来は、勤務医時代は、ほとんどありませんでしたので、整形外科といったら、来る患者さんは、高齢者が多く、腰が痛い、膝が痛い、首や肩が痛い、足が痛い、股関節が痛い、このような順で患者さんは多いものだと思っておりました。
 ところが、開業して午後の外来をするようになると、驚くほど多くの、小学生、中学生など、お子さんが来られます。
 例えば、オスグット・シュラッテル病という教科書にも載っている整形外科では有名な病気があります。俗に言う、膝のお皿の下の成長痛、骨端線(骨の成長線)の障害です。(正確に言うと、その部分の骨が壊死してくる病気です。が、そこまで進行している方はほとんどいません。)勤務医のときは、この病気を診ることはあまりありませんでした。ところが、開業して、この病気の患者さん(=子供)がかなり多いのです。来るは、来るはで、こんなに多いのかと思いました。
 子供には、このような膝の障害や外傷、加えて、足の障害や外傷が多いのが現実です。逆に、腰の痛みで来る方は少なくなります。そこで、専門外の、しかも子供を中心とした、足や膝の障害を診るうちに、いろいろ思いつきましたし、いろいろ工夫をする機会を与えてくれることになりました。来られた患者さんの膝や、足の障害がよくなれば、足や、膝が痛いといってやってくる患者さんはどんどん増えます。おかげで、私の医院では、午前中より、午後の方が患者さんの数が多く、レセプトの請求も、社会保険の家族(子供や、奥さん方)が非常に多くなりました。整形外科はお年寄りが多い、という神話も崩れました。患者さんの悪いところの訴えも、一番多いのは、たぶん足か膝です。腰はその次ぐらいか、あるいは首、肩の患者さんも同じぐらい多い印象です。
 そこで、足から膝、股関節と順にわかってきたことをお話してゆきます。
足は、専門ではないのですが、いろいろ工夫してきて、わかってきたことも多く、参考になればと考えています。足を専門に診る先生はまだ少なく、テレビにも出られている、慶応の教室の先輩の井口 傑先生が有名なぐらいでしょうか?足の障害で、手術(特に以前の靭帯断裂のあと、ゆるくなってしまった足首の手術など、やや面倒くさい?手術)を頼めるような専門の先生が非常に少なく、困ってしまうことがあるのが現状です。
 足の障害は、子供のかかとの俗に言う成長痛から、足の趾(ゆび)の障害、巻き爪まで、性別、年齢に関係なく、大勢来られます。子供から大人まで、共通の訴えのある、かかとの痛みから、次回お話します。
| コーヒーブレイク | 23:28 | - | - | - | - |