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赤坂整形外科

院長のオリジナルの考えをのせています。今までの考えを残してゆくつもりで筆を執りました。読み物だと思ってください。
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コーヒーブレイク
108、私が整形内科医になったわけ1

 前回は、渡辺淳一氏の本から始まり、腰の手術の自慢話をしましたが、この手術を捨てて、開業に至った経緯でも、またまた自慢?たらたらにお話します。
 手術をしないで治療をする=整形外科ではなく、整形内科とでも申し上げるのが、妥当と思います。ただ、整形内科医になるためには、整形外科の手術をよく知らないと駄目ということは事実です。どこまで、手術をしないでよいのか、どのような例が手術をしないといけないのか、知らないと駄目と言うことです。医学部を卒業していきなり、整形内科医になることはできないのです。
 そこで、また、渡辺淳一氏の自叙伝的な話を真似て、自分の今までの医師としての経歴を話してみます。
 
 医師になりたての私は、まず、5月から整形外科の医局員として、大学病院に研修医として働き出しました。今は分かりませんが、当時は、医師国家試験の合格を待ってから、働き出していましたので、4月からではなく、一月遅れでした。(ただし、外科などは、4月からすでに働かされていました。)(医局とは、教授を頂点として、それぞれの科が、独立して医師を管理するグループ?です。医局に入ることにより、医師としての、教育、研究、職場の確保を保障してくれますが、医局の指示に従って、行く病院が決まります。安心して仕事が出来る反面、自由が効かない部分もあります。)私は、5,6月と何もわからぬまま?勤務して、7月から、早くも、4ヶ月間の麻酔科研修となりました。当然、慶応大学病院の麻酔科で研修すると思っていたところ、一人だけ外の病院の麻酔科に行く枠がありまして、くじで運悪く?私に当たってしまったのです。7月から10月まで、都立大久保病院の麻酔科に勤務しました。大学病院でないため、麻酔科の医師も少なく、常勤2人で、後はパートの先生と、研修医2人ですべての麻酔を担当していました。今思うと、これが実は非常に貴重な経験になりました。まず、麻酔を担当する症例が、非常に多かったことです。大学病院では麻酔科の研修医も多く、多くの症例を経験することは不可能です。また、トップの先生が、出来るだけ、硬膜外麻酔で麻酔をかける方だったのです。おかげで、硬膜外麻酔、腰椎麻酔の手技を覚えられましたし、肺の手術の麻酔担当も経験させてもらいました。後の、自分で行う硬膜外麻酔下の手術、硬膜外ブロック治療の基礎となりました。
 麻酔科の研修後は、また大学病院の整形外科の勤務に戻りましたが、早くも、12月には、外の関連病院への出張となりました。(関連病院とは、医局が、所属する医師のために研究や、職場として確保している病院です。この制度が崩れてきている現在、病院側が、医師を確保できなくなってきて閉鎖に追い込まれていることが社会問題となっています。つまり、病院側も安心して、医師が確保できる利点があるのです。)当時の私は、はっきり言って、だめ医者です。(今でも、いい医者だとは思っておりませんが。)だめというのは、上の先生から、あいつは、だめだな、どうしようもない と言われるような医者です。学生最後の6年目に必死?に勉強したため、その反動で、全く勉強せず、遊ぶことばかり考えているような医者でした。
出張した直後は、何もわからずに、上の先生に大変迷惑をかけていました。これはイカンと思って、またまた勉強して何とかある程度カバーできるようになりました。出張一年過ぎで、何とか普通の医者に近づくことが出来ました。
この病院での経験で、役に立ったことは、まず、検査をほとんどすべてやらされたことです。MRI検査が普及している今では、数多く行う機会はないと思いますが、当時は、ありませんでしたので、関節は造影検査、椎間板ヘルニアは、脊髄造影(ミエログラフィー)、椎間板造影(ディスコグラフィー)を頻繁に行っていました。レントゲン透視下で行うことがほとんどですので、透視診断にも目を慣らすことが出来ました。私が、検査にもなれたころに、交代して勤務してきた2年上の先生が、椎間板造影がうまく出来なくて困っていましたが、下の私が代わって行うなど失礼で言い出せませんので、ずっと終わるまで待っていた記憶があります。
 2番目は、生後7日目の乳児の検診をすべてやらされたことです。指が一本多いなどは、誰が見てもわかりますので、そうではない、股関節の脱臼、斜頚(首の筋肉が硬くなって顔が斜めに固まる病気)などの予備群の選別です。生後1週間ぐらいでは、股関節脱臼も斜頚もまだ発症しませんので、予備群と呼ばせていただきます。これにより、股関節の脱臼の診察の仕方を習得できました。股関節が硬くて開きが悪い方が予備群として再検査です。斜頚は、首の左右前方を斜めに走る筋肉が硬くなっている方が予備群です。これは、思った以上に多く、再検査で、軟らかくなっていく例が多いのですが、そのまま斜頚になる方もいました。
 3番目は、入院患者さんのリハビリ依頼をすべて書かされたことです。整形外科の患者さん以外という意味です。脳卒中後の患者さんが多く、リハビリでどのくらい動けるようになるかが、わかるようになりました。後の自分で患者さんに行うリハビリの基礎になったと思います。
 以上ためになった3つは、実は上の先生がやりたくない仕事です。そこでやらされた とういう表現をさせていただきました。この病院には、1年4ヶ月ほど勤務しましたが、最後の6ヶ月ぐらいは、だめ医者からもう大丈夫だと判断されて?多くの手術を執刀させてもらいました。医学的には、肩の専門の先生と仕事が一緒に出来たことが、貴重な経験です。肩の専門の先生は少ないので、腱板断裂の手術など、貴重な手術をいくつも見せていただきました。

 次の病院は、最初の病院とは上の先生の考え方、治療方法など全く違いました。最初は戸惑った記憶があります。まず、手術ですが、前の病院では、上の先生が、ここ切れ、こうしろと一つ一つの動作を指示していたのです。そのため、自分で進んで行うことが、出来ないことに気づきました。今回の上の先生は、私が行うのを、見ているタイプでした。そのため、自分で考えて、一つ一つの動作を行うことが必要です。最後までこれをすべて克服することは、出来ませんでしたが、かなりできるようになったことも事実です。さらに、上の先生が、患者さんが納得するまで、一人に30分もかけて話すこともあったので、外来が長くかかり、手術の開始時間に医師が私一人しかいない状況に陥ったことも何回かありました。おかげで、アキレス腱の手術は一人でできるようになりましたし、膝の手術も一人で行っていました。当時の膝の手術は、関節鏡でまず、半月板が切れているかどうか確認して、切れていたら少し皮膚を切って、直接見ながら切除する方法でした。半月板を切る時は、膝をひねって関節を開く必要があり、これをどうやって、一人で出来たのか今でも不思議です。膝の手術でも、関節鏡を見ながら、皮膚の切開を出来るだけ小さくして、手術を行う方法(内視鏡下手術)が主流になったのは、この後のことです。つまり、これが、今流行の外科系の多くが行っている内視鏡を見ながら、手術を行う方法の走りだと思います。鏡下手術の歴史は意外に浅いのです。
 ここでの上の先生方は、脊椎と、手の外科が専門でしたので、膝、肩の症例は比較的自由に手術を行うことが出来、関節外科に興味を持ったのはこのころです。さらに、どんな症例でも、可能であれば、任せておけという感じで、治療してしまう方だったので、骨肉腫、横紋筋肉腫など、大学病院でないにもかかわらず、腫瘍の症例が多く、自分で、抗がん剤の投与方法のプログラムを作成して、(これも上の先生は自主的にやらせるような指導方法でした。)治療しました。そして、足を切断したり、当時は、特注だった長いタイプの人工膝関節を入れたり、貴重な経験をさせていただきました。

 3番目の勤務病院は、肢体不自由児の施設で、ここでも、脳性麻痺、先天性股関節脱臼の重症例など、貴重な症例を経験させていただきました。
脳性麻痺の児童は、尖足位(つま先だった角度)で歩くことが多く、歩く姿(=歩容)を改善するには、アキレス腱を伸ばす手術が必要です。この手術が一番多く、切れていないアキレス腱を見た、貴重な経験です。アキレス腱断裂自体が保存的に治療され、手術しないことも多い現在、切れているアキレス腱を見たことのない先生もおられるでしょうし、ましてや、正常のアキレス腱など、見たことがない先生が多いと思います。
 余談ですが、先天性股関節脱臼の重症例は、女子が多く、しかも、きれいな子、可愛い子が多いことに驚きました。そのため、施設の中では、人気が高い子が多かったです。中には、美人で芸能人になれるような子もいましたが、股関節のレントゲンを見ると、変形が強く、(=将来的には、人工関節が避けられないほど)かわいそうでした。先天性股関節脱臼には、女性ホルモンが多いのが、関係しているのでしょうか?とにかく、きれいな子ばかり目立ちました。

 今回の締めとして研究発表の話を簡単にします。勤務した病院で、それぞれ症例を発表させられて、論文を書きましたが、何度も書き直しをさせられて、発表と、論文作成に才能がないことは、気づいておりました。この3番目の勤務病院では、膝に関する症例の発表を行いましたが、膝の専門の先生方の、カンファレンスで見てもらったところ、方法論から否定されて、大幅に変更させられた経緯があります。発表をしたものの、論文にはまとめられず、膝の学問的な難しさを痛感して、膝を専門とすることをあきらめた時でもあります。
 ついでに話しますと、4番目の勤務病院でも、骨盤骨折の症例をまとめて発表して、論文を投稿したのですが、投稿後に、別の大学の教授から内容にクレームがきて、変更と言う失態?となり、この瞬間、発表、論文に本当に向いていないのだと言うレッテルを自分に貼ったのです。追い討ちをかけるように、続いて、博士論文となるであろうと考えていた研究の発表を行った時も、質問の回答に失言?をしてしまい、上の先生にひどく怒られて、研究を止めて、医局を離れる決心をしたきっかけとなりました。これ以降、私は発表、講演などを一切行っておりません。 
| コーヒーブレイク | 10:59 | - | - | - | - |