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赤坂整形外科

院長のオリジナルの考えをのせています。今までの考えを残してゆくつもりで筆を執りました。読み物だと思ってください。
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コーヒーブレイク
111、私が整形内科医になったわけ4

 脊椎班に入って、興味がわいて、私の専門?(名のある先生にとっては、ライフワークと言います。)となったのが、痛みの治療です。この時期以降、この方の痛みはどこが原因なのだろうか、どうしてこのような痛みが出るのだろうか、と考えながら、臨床を行ってゆくことになります。
 脊椎の中には、脊髄が走っていて、運動や、感覚の神経が通っています。これらの感覚を支配するのが脳ならば、その通り道で、強い影響を及ぼすのが、脊椎の部分です。この部分の障害で、運動能力も落ちますし、感覚も悪くなりますし、痛みも感じます。中でも、痛みを訴えてくる方が一番多いので、自然と“痛み”の治療が中心になったのだと思います。

 5番目の病院の上の先生は、腰痛の患者さんを入院させたら、まず、硬膜外ブロックを行い、改善しなければ、手術をする治療方法を取っていました。硬膜外ブロックの手技は、硬膜外麻酔と同じですので、すぐに自分のものにすることが出来ました。これが、神経ブロック治療を本格的に取り入れるきっかけになり、治療法の柱になってゆきます。
 この病院は、病床も少なく、都下にあり、研究をするために赴任したようなものです。(=医局の方針で、研究をしている者は、優先的に大学病院の近くの病院に勤務できました。)仕事も遅くまでかかりませんでしたので、可能な限り、慶応大学病院に通い、深夜12時前後まで、研究に没頭することが出来ました。前にも述べましたが、それでも、基礎の研究では、時間が足りなかったと言うのが、実感です。医局室の隣が研究室でしたので、いろいろな先生と顔を合わせた時期でもあります。特に、膝班の先生は、カンファレンスのあと、医局に陣取って、12時ごろまで、延々と学問的な話を続けていたのが印象的でした。カンファレンスは別のところで行い、そのあとも医局に残って延々と議論?を続けるのです。次の慶応大学病院勤務になって本格的に参加した脊椎班のカンファレンスはあっさり終わっていましたので、つくづく膝班に入らなくてよかったと思い直した時でもあります。

 研究に挫折して、止めたのも、この病院勤務時代です。その後、慶応大学病院に6ヶ月勤務した後は、研究も止めていましたので、地方の病院勤務が決まっていました。しかし、このまま、地方の病院を回っていても、将来意味がないと考えて、慶応病院退職と同時に、思い切って医局員を止めたのです。医師になって、8年目でした。専門医になってはいましたが、まだまだ未熟で、わからないことも多い時期です。医局を辞めるということは、自分で病院に就職して、自分の責任で、仕事を切り開いていかなければなりません。後ろ盾、保証がなくなるのです。この学年で、医局を辞めて開業する者はいても、ただいきなり止めて、次どうするか決まっていない者など通常おりません。私は、止めます と宣言した時に、次が決まっていませんでしたので、他の先生からいろいろ心配していただき、いくつかの病院に 来ないか と誘われます。そして、慶応病院勤務の時からパートに週2日行っていて、なじみの深い西窪病院に決めたのです。(=今度はパートではなく常に勤務すると言うことです。)この病院は、当時の院長先生が、慶応大学出身の外科の先生で、すべての科が慶応大学のパート病院でした。パート病院とは、大学勤務の先生の給料が少ない、あるいは無給なので、生活をするために、給料をもらうために医局が確保している病院です。関連病院と違って、正規の職員を送ることはなく、悪く言えば、関連病院よりも格下です。

この西窪病院の話をしてみます。
 この病院は、病床は、100床ほどで、昭和35年設立でしたので、当時の狭い規格に病室が出来ている上、外来、医局も狭く、とても居心地がいい状態ではありませんでした。麻酔科の先生が勤務していなかったため、なぜか整形外科の麻酔をパートに来ている外科の先生が行っていました。しかし、来られている先生は充実していました。パートに来ていた他の先生は、慶応大学の医局所属の上の先生で、医局を辞めたといっても、引き続き、勉強しながら、仕事することが出来たのです。
 私は、8年目でしたが、他の常勤の先生は、外科(=院長)、内科、泌尿器科、小児科、産婦人科一人ずつだけで、しかも、ほとんど自分の父親ぐらいの年齢でした。+ほぼ同時に赴任してこられた、放射線診断科の先生(こちらも他の病院を引退してきた年齢の方)でした。そして、なぜか、病院の経営を取り仕切っている、やり手の事務長が中心にいて、皆をまとめていました。(この事務長には、器械の購入、パートの先生の給料、など、金銭面を含めてわがままを聞いてくださって、いろいろお世話になりました。)
 また、当時から泌尿器科が有名で、俳優の松田優作さんが亡くなった病院でもあります。この数年前に、泌尿器科が、次の教授候補をめぐって、医局員が二つに分かれた事件?が起きております。詳しいことはわかりませんが、教授になれなかった先生のほうを支持していた医局員は、全て慶応から追い出されて外の病院勤務になったと聞いています。この泌尿器科の先生は、かなりの政治力を持っていて、そのなれなかったほうの先生を支持していたそうです。慶応の中の 白い巨塔(この物語は確か1970年以前に書かれていて、当時から有名です。) と呼ばれた話です。 整形外科では、次の教授の話は、誰になるのだろうか と格好の噂話にはなっても、具体的に支持して走り回る医局員などはなく?皆興味津々と見守るだけですので、白い巨塔のようになるはずがありません。
 その縁、コネックションもあって?勤務してまもなく、泌尿器科の若手の先生(それでも私の先輩で、その奥さんが私の一学年上の同じオーケストラ部の方でしたので、結婚式でなんと皆で演奏していました。)が常勤となり、さらに数年後、事務長?の発案で、腎臓透析を始めて、新病棟を作って、常勤の先生を2人迎えて、どんどん大きくなってゆきました。(泌尿器科と腎臓内科で、腎臓系を強くしたのは、良い案だと思いました。)一方、どの病院でもそうですが、売り上げの上がらない、小児科と、産婦人科はなくなりました。さらに、院長の婿殿が、消化器内科で赴任してきて、今は、理事長となり、その若手の方の泌尿器科の先生が、院長となり、病院も新しくして、現在は、武蔵野陽和会病院となっております。
| コーヒーブレイク | 09:13 | - | - | - | - |